足、というのは体の中でも酷使されているわりにはいたわられていない。
まあ、この頃は足裏のツボとか、健康は足から、みたいなブームもあるので、気を使っている人は使っているんでしょう。
あ、ペディキュアとか、きれいにしてる人もいますね!
私の足はひどいものです。
小学校のころ、裸足教育?がはやって、学校ではほぼ裸足ですごしたせいか、女らしいというには程遠い足でございます(泣)。
おまけに静脈瘤の後遺症で所々色素沈着。
とても他人様にお見せできるような足ではありません。
しかし、最近、あまりにも不憫な気がして、お風呂の後に香りのいいローションでマッサージしてみたりするのです。
これが、いい気持ちで。ほかほかしてきますね。・・・もう少し、自分を労ってやっていればよかったと後悔しています。
ベビー・マッサージというのもありますね。
赤ちゃんをできるだけ手でさわってあげると、心身の発達によいそうです。わかる気がします。
・・・それで、前々から思っていたことを、これから書いてみます。(唐突か!?)
ルカ福音書7章37節~38節
7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
この女はマグダラのマリアだと言われています。
香油、は非常に純粋なナルドの香油であったとヨハネ福音書にはあります。「家は香油の香りでいっぱいになった」と。
非常に大胆な行動です。
その頃の習俗はよく知りませんが、よその家にいきなり入ってきて主賓の背後から忍び寄り(!)アロマ・マッサージをしちゃうなんて!
おまけに、こともあろうに、イエス様に!
御身足を涙で濡らす!髪の毛で拭う!!さわっちゃう、マッサージしちゃうって・・・!!!
女性陣の大顰蹙の声が聞こえてきそうな話ですよ。
なんて、大胆な・・・(やっかみ半分。いや、もっとかも。)
女性として、ここからが肝心だと思うのですが、
自分と彼女を重ね合わせることができるでしょうか?
私は罪深い女です、とおっしゃる方はけっこういます。
でも、さすがにマグダラのマリアみたいに、とは思っていないでしょう。
人の悪口を言うとか、あんまり教会に熱心でないとか、夫や子どもを大事にしてない、けっこう私は意地悪だ、とか。
そういうのも、もちろん罪にはちがいないけど、マグダラのマリアは別格、普通の女子とは生きざまが違う、とどこかで思っていませんかね。
性的な罪深さ、というのは、直視しがたいものがあります。
端的なかたちなのは、彼女のように、性を売り物にしていたとか、不倫とか、いわゆる道徳的でない生き方のことです。
これらが直視しがたいのは、人間の根源にある欲望に触れているから。そして、それは誰もが持っている傾きであることを、実は皆知っているから。ではないか、とこのごろ思うのですが・・・
そして、それらは、一瞬のあやまちではなくて、たいてい、継続性がある。
聖ベルナデッタを描いた『聖処女』という映画があります。
ジェニファー・ジョーンズ演じるベルナデッタが、司祭に質問されます。
「罪人とは、どういう人のことかね?」
「罪を愛する人のことですわ・・・」
罪を愛する・・・
つまり、回心せず、ずっと、承諾して、その状態に留まる、ということです。
それがはっきりわかるのは、やはり愛憎の分野ではないでしょうか?
愛しい、憎い、やっぱり諦められない、どうしても許せない・・・etc
この年になると、だれでもそういう「どろどろ」の部分を持っているはず。持っていた、とか、少なくとも、わかりますよね。自分の問題として、思い出すことはあるでしょう。
「その時」だったら、、、私も「罪人」と自他共に認める状況だったかもしれない。
そして、「その時」だったら・・・
私もマグダラのマリアのように、イエス様に抱きついて泣いていたかもしれない。
愛しくて、アロマ・マッサージしてたかもしれない。
・・・そんなふうに、このごろ感じています・・・