ずいぶん更新が滞っていました。
いろいろと忙しかったこともありますが、個人的にかなり気持ちが低調で、ここのことまで手が回らなかった、というのが正直なところです。
大きなイベントを終えて、燃え尽き現象もあったのかもしれません。
そのイベントを通じて、心に触れた、ある確信を誰かにわかち合いたくてたまらなかったのですが、相手がいなかった!
一番わかち合いたかった人にはふられて?しまいましたし。
手に触れたかすかな聖霊の息吹は、ほろ苦い思いとともにまだ私の胸に留まっています。
たしかに、少し成長したかもしれないけれど、誰かにわかち合わなければ、私の中でけじめがつかない。
そんな思いを抱えたまま、過ごしてきました。
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なぜ、復活の朝の話かというと、やっぱり、マグダラのマリアです。
彼女がこんなに近く感じられる日が来るとは思っていなかったのですが、彼女が孤独の中でずっと耐えていた思い、わかち合えない思い、そういうものがとても親しく感じられるのです。
回心したとはいえ、他の女性たちとは多分心から打ち解けられなかったのではないでしょうか。
過ごしてきた経験が過酷であったこともあるし、
多分、彼女が心にたたえていたものを深く知っていたのはイエスだけだったでしょう。
復活の朝に、イエスは彼女に真っ先に現われました。(母マリアのことは、今はさておき)
聖書では
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
ヨハネ20章14-18節
とあります。
この、「わたしにすがりつくのはよしなさい。」について、イエスはマグダラのマリアを諌めたのだという解釈が多いですよね。
女性の信者には、こういうタイプが多いとか、そんな話にまでなってしまう。
まあ、そうかもしれませんが、それだけじゃあんまりですよね。
だったら、まっさきに出てきたりしないでほしいです。いきなり突き放すなんて、いくらなんでも・・・
娘に言わせると、ここでマグダラのマリアはイエスに失恋したことになるんだそうですが・・・
ここからは個人的な妄想?です。
マリアは、イエスにすがりついたのだと思います。もちろん、イエスもそれに応えた。
ハグですよ。
だって、死んだと思っていた人が生きていたんです!
しかも、最愛の人が!
ハグしてあたりまえではないでしょうか?
しばし抱き合い。
イエスはやさしく腕をほどきながら、ささやくように、「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と言ったんです。
このハグで、マグダラのマリアはイエスにすべて受け入れてもらったことを確信したのだと思います。
この思いがあれば、この先、ずっとずっと生きていける。
この思いがあれば、この先、イエスにふたたび会えなくても、しっかり自分の足で歩いていける。
だから、彼女は最初の宣教者になれたのです。
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もしかしたら、それぞれの思いをしっかり受け止めてくれるのはイエスおひとりかもしれません。
それに気づいた日が、それぞれの復活の朝。
いえ、でも、弱い私は、やっぱり受け止めてくれる人が必要なんだけどなー。