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つどうよろこび

明日は、半年以上準備を重ねてきた超教派のクリスマスのお祝い企画当日です。

午前中に、教団の教会の厨房におじゃまして、教団教会員の相棒と、冷凍しておいたゆであずきをお鍋で伸ばしてお汁粉を作り、プログラムに印刷物を挟み込み、午後には子ども企画の会場である聖公会の教会にプログラム300部を置いてきました。
そして後は夜に、所属のカトリック教会の聖堂でミニコンサートのリハーサル。そうそう、会場の見取り図をプリントアウトしなければ・・・

昨年も、この企画の記事を書きました。
あれから1年たったんだ。
無我夢中だった昨年と比べて、今年は準備も楽しかった・・・。明日で、それが終わってしまうのが淋しいくらいに。

忘れてしまわないうちに書き留めておきます。
今日、市内をあちこち車を走らせながら気づいたことを。

クリスマスって、なんだと聞かれたら、どう答えますか?

救い主イエス・キリスト、という言葉を使わずに、どうやって、キリスト教ではない人に説明できますか?

いろんな説明ができるでしょう。模範解答もあるのでしょうが。

私は、「あなたはひとりじゃない、っていう日のことですよ」、と答えます。

別の、管理しているサイトで「わたしのクリスマス」というアドベント企画をやっているのですが、寄稿された文章のほとんどが「人との交わり、家族のきずな」についてのものです。思い出のクリスマスには、いつも愛する人の影があります。
そう、クリスマスのお話も、クリスマスソングも・・・

そして、今年も、この超教派のクリスマスの企画を準備する長い「アドベント」は、人と人を結びました。
「違い」を知ることから始まって、「同じ」ことがわかってくる。
一緒に働いてみなければ、はじまらない、わからない。
「違う」のが当り前な人々が集って、集って、一緒になる・・・
今年のテーマは「つどうよろこび」です。

*****

きわめつけは「インマヌエル」というキリストのもうひとつの名前。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)

聖夜

なんでいまごろクリスマス、という話ではありません。

末っ子のお産のときの話です。

事情があって、実家と義絶状態の私は、お産のときに母に来てもらったことがありません。(来たところで役に立つキャラじゃないんですが)

主人は上の子たちの世話があるから、仕事を休んでも私に付き添うわけにはいかず、けっきょく産むときはいつもひとりでした。(いや、誰でも結局はひとりで産まなきゃならないですけどね)

入院中、お母さんや姉妹が来てお世話する同室の産婦さんを見て、うらやましくなかったと言えばうそになります。

誰も見舞いに来ない私を不憫がって、「よくお乳がでるから」と、ぼたもちをくれたおばあさんがいたっけな。

うれしかった。

まあ、ぐちを言うわけじゃありません。それだけ、センシティブになってしまう時期なんです。

さて、本題。

さすがに末っ子のお産のときは、もう淋しいとも思いませんでしたが、やはり当日の夜はいろいろと感じやすい気持ちでいたんだと思います。

その産院は、生まれて一時間で母子同室というところ。しかも同じベッドに寝かせて添い寝していいという。添い寝は危険だとかともいいますが、けっきょく起き上がるのが面倒になって、上の子達も皆添い寝で育てた私にはごく自然なことで、ちいさいちいさい息子のちいさな足をにぎにぎしながら、後産で痛くて眠れない、それでいて気持ちはほっこり幸せな夜をすごしていました。

となりの部屋には一日前に生まれた女の子と、18歳の超ヤンママ。

女の子がすごく泣いている。

ちょっと心配になったころ、「あー、ごめん、ごめん」とママの寝ぼけた声。

そうだよな、若いから熟睡しちゃうんだよな。でも、そんなママのところにも、神さまは信用して子どもを託すんだよな。

私が完全だから、信用があるから、ではない。

不完全を承知で、この子をくださった・・・ 涙が出るくらい、感謝の気持ちがわいてきた。

マリア様も、こんな気持ちだったのかな。

にんげんのところに、かみさまは、すっかり無防備な姿で自分を託し、信頼して抱かれた。

しかし、抱かれているのは、わたし、にんげんかもしれない。すっかり、無防備に、かみさまの愛の懐に。

愛が、呼応する。呼吸の中で、鼓動の中で。わたし、あかちゃん、あかちゃん、わたし。

不思議な感覚が、夏の夜に沈んでいく。

聖夜。

アドベントのみのり

もう1カ月近くたってしまいましたが・・・

春先からかかわってる超教派のクリスマスイベントが12月12日に催されました。

歴史のある催しなのですが、それだけにマンネリになって参加聖歌隊の発表会の様相を呈していました。

歌の好きな人にはいいんですよ、それでも。
えっと、もっと正確に言うと、歌を歌うことが好きな人には。聞く方は、ちょっと苦しいかもね。

で、いろいろ賛否両論があって、今回はまったく趣向を変えて、打って出ました。

宣教と、各教派の交流をはっきり自覚して、例年にない企画。

久しぶりに市内のカトリック、プロテスタントの教会教職者が会合を持って、どんな祈りの会にしたらよいかを話合いました。

・・・結果は多分大成功。カトリックの大聖堂の祭壇上に並ぶ教職者を見て、こんな日が来ることを半年前にはだれも想像していなかったことを思って感無量でした。

もちろん、ミサでもなく、聖餐式でもなく、形式的には中途半端な祈りの会だったかもしれませんが・・・

イエス様が望まれているのは、一致。互いに愛し合うこと。

そして、クリスマスというのは、それが全人類に啓示されている日であることを思うと、

この日は「実り」であったと言う以外ありません。

もちろん、準備の過程では、冗談じゃなく胃が痛むような激論も交わされて、そうとうに消耗しましたが、あきらめなくてよかった。

理解し合うには、共に働くこと。理解しようと自ら踏み出すこと。

そしてなにより、ここにイエス様が居たならば、と想像してみること。

****

その日の教団の牧師先生のお説教は、希望についてのお話でした。

アドベントという言葉は待つ、という意味だけでなく、あちらから来る、という意味があること。
アドベンチャー(冒険)もアドベントから出た言葉で、あちらからやって来る未知に向かって踏み出すことがアドベンチャーである、ということ。
旧約の民はずっとずっと待っていたけれど、私たちは希望しなければならない。勇気を持って、未来へ踏み出す。愛することに憶病になってはいけない、というお話でした・・・

タイムキーパーとして祭壇脇でドキドキしていた私でしたが、お説教を聞いて、じんと来ました。

長い長いアドベント。
救いの歴史が、はじめて身に染みたような気がしました。