『マルガリータ』(村木嵐 文芸春秋社)という小説を読みました。
小説を読む気持ちの余裕もない生活をしているので、ほんとうに久ぶり。しかし、自分で選んだわけではなく、H神父がTさんから勧められて一読。「これ、おもしろいねん。」とまた貸ししてもらったのが縁で・・・
主人公は天正遣欧使節のひとり、千々石ミゲル。4人の中でただひとり棄教した評判のよくない男の話です。
この小説は松本清朝賞を受賞したこともあって、カトリック新聞には「天正遣欧使節の4人の友情を描いた小説」と紹介されていました。
たしかに、そうなのだ。そして、キリシタン禁教時代に生きたキリシタンたちの苦悩とか、棄教した人々の思いなどが、共感できる筆致で描かれています。(遠藤周作のは読んでいて苦しすぎるので)
ミゲルが棄教したのは政治的な思惑も絡んでいて、内心では棄教せず、ひそかに中浦ジュリアンをかくまっていた、という筋書き。
H師などは「そういう見方もあるのか」と、このあたりに関心を持っていたようですが。
私はちょっとちがいました。
この千々石ミゲルの妻が「珠(たま)」といって、真珠は南蛮語で「マルガリータ」というので、この題名は妻「珠」のことで、主人公は「珠(たま)」である、という読み方もひとつのスタンダード。しかし、この物語には、もうひとり、ミゲルの従姉妹で「まりいたさま」と言われる美しく聡明な姫が登場します。物語の後半で、「まりいた」というのが実は「マルガリータ」のことだと明かされるので、「マルガリータ」とは「たま」であり、「まりいたさま」なのです。
このふたりと、聖書の『マリアとマルタの物語』が、絡み合います。
このふたりは、ともにミゲルの理解者であり、生涯を伴走することになるのだけれど、「たま」は教養もなく、ただひたすらミゲルを慕う直情型の女で、キリスト教も、ミゲルが信じるから信じる。ミゲルが棄てるなら、棄てる。ただ、ミゲル一筋に尽くす。だから、ミゲルには「たまはマルタだ」と言われ、自分でもそう思っているわけです。
一方、「まりいたさま」は美しく、優しく、教養もあり、ミゲルと信仰をわかち合うことができる。「たま」が理解できない部分でミゲルと深くつながっていて、まさに「マリア」。
「たま」は全力投球、体当たりの人生をミゲルに奉げつつ、自分だけのけものである、とつねに淋しさを感じているわけです。
死の床で、ミゲルは「まるがりーた」と言ったように聞こえたのですが、それが「たま」なのか、「まりいた」なのか、ミゲルの死後も彼女はわからないまま。
しかし、あな吊りになって殉教する直前の中浦ジュリアンに接して、彼の中に生きている亡き夫ミゲルを感じて、マルタはマルタとしての在り方を静かに受け入れていくのですが・・・
『マリアとマルタの物語』は、あまり好きではありません。どっちがよくて、どっちがよくない、という話になってしまいますから。
女性の大半は、自分はマルタだと思っています。
マリアが、マグダラのマリアだとされることが、なお一層、女性陣の態度を頑なにします。
・・・イエス様もやっぱり、美人のほうがいいのよね。私なんて、いっつもおさんどんよ!(怒)
と、こうきますよ。私の姑など、まさにこの勢いで霊名をマルタに選びました。
働いても報われず、なおかつイエス様にたしなめられる。しかも、聖書では有名な箇所で、、、マルタは気の毒ですね。
聖書のマルタはともかくとして。
天草四郎がミゲルとまりいたの子だという推測めいた挿話もあるのですが、ミゲルとまりいたはプラトニックな関係に描かれています(まりいたには大変な善良実直な夫がいます)。一方、たまはミゲルと結婚し、子どももいるわけです。たまにとって、その二人の子どもこそがミゲルとの絆の証しでした。
しかし、心の絆はというと、身体的な絆を超えていました。誰にもなんの落ち度もないのですが。
濃厚な絆。なんの通信手段もないのに、ミゲルが窮地に陥ると、いつもまりいたの助けの手が差し伸べられることにたまは不思議でならないのですが、テレパシーめいた濃い絆が二人の間にはあったのですね。
これはお手上げです。私の読みでは、たまは完敗です。
作者がカトリック新聞のインタビューで話していたように、「たまのような名も無い信者が時代を進めていった」ということは事実です。
そして、彼らももしかしたら、たまのようにずっとキリスト教に「のけものにされていた」気持ちを抱いていたかもしれません。
いくら尽くしてもその奥まで入り込めないもの。
あこがれつつも理解しきれない淋しさ。
マリアになれない哀しさ。
ずっとひっかかっている棄教者「不干斎ハビアン」の生き方とも通じる日本人とキリスト教の関係に近いなにかを感じてしまいます。
個人的には、まりいたさま、好きです。たまは苦しすぎます。こういう立場はいやだなあ。
