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もしも私が難民だったら

昨夜、聖イグナチオ教会メルキゼデクの会で、『日本における難民のこどもたち』という講演会を聞いてきました。お話は、難民支援協会の古藤吾郎さん。パワーポイントを使ったわかりやすいお話でした。
古藤さんのお話をもとに、自分なりにまとめなおしてみたのが、以下のストーリーです。

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私の名前はAといいます。15歳です。両親と、ふたりの弟と、東京のB区に住んでいます。
私たちの祖国は内戦状態で、私たちの属する民族は少数派なので、酷い迫害を受けていました。父は、私たちを守るために、日本のビザを手に入れました。そして、父が8年前、私たちは3年前に日本に来たのです。その時はまだ、下の弟は生まれていませんでした。
私たちのように、迫害のおそれのある国籍外の国にいて、迫害の恐怖のために国籍国から保護をうけられない人のことを『難民』というのだそうです。(1951年難民条約)

小さなアパートを借りて、父は知り合いから紹介してもらった飲食店で働いていました。本当は、働く許可はなかったのですが、お金がないので仕方ありませんでした。
ところがある日、突然、入国管理局の人が来て、父を連れていきました。ビザが切れていたのだそうです。
父はそのまま連れていかれて1年間、帰って来られませんでした。

入国管理局に入ってから、難民支援協会の人に父は難民申請をすることを教えてもらいました。難民として認定されるのは日本では非常に難しいのだそうです。(2008年の場合、1599人が申請して、認定されたのは57人。人道的配慮による在留特別許可は360人。ほかはすべて不認定。)
それに認定手続きにはとても時間がかかります。(平均2年。5年以上かかる場合もある)
1年たって、『仮放免』になったのですが、収容所から出るために、保証人と、50万円の保証金を知人たちから借金しなければなりませんでした。
家族も同時に『仮放免』扱いになりましたが、仮放免は在留資格はなくて、いつ収監されるかわからないのです。B区に外国人登録をしていますが、ちゃんと「在留資格なし」と書いてあります。やっぱり就労許可はないけれど、働かないわけにはいきません。

今のところ、在留資格がなくても、私たちは学校にも行けるし、難民申請をしているので、RHQ(難民事業本部)から保護費も出ます。でも、在留資格がないから、保険には入れないし、RHQは医療費は後払いです。だからなるべく医者にはかからないようにしています。弟が生まれた時は、病院で一度断られたそうです。母は日本語がよくわからないので、いろんな保障についての話もよくわかりません。
家族の中で日本語が一番わかるのは私です。役所の人に、通訳したりするので、こんなこともよくわかるようになりました。
弟たちと私は日本語で話すけど、両親は母国語で話すので、両親は私たちが何を言ってるのかわからなくて、時々悲しくなります。

普通の学校の友達と同じように、中学生らしい生活がしてみたいです。弟が小学校に入った時は、難民支援協会に寄付のあったランドセルをもらいました。弟はとてもうれしそうでした。
高校は本当は行きたいけど、行きません。両親を助けて働きたいです。でも仕事もなかなかないようです。
いつまた父が収容されるかわからないし、仕事もないし、学校にも行けない。いったい将来どうなるのだろうと、不安です。
同じ国の出身の人でも、民族によっては敵同士ということもあるし、私たちが日本で難民申請をしていることがわかったら、本国の親戚に迷惑がかかることもあるそうです。だから、打ち解けて関わるコミュニティもありません。

私たちは、犯罪者ではないのです。それなのに、いつつかまるかとびくびくして暮らしています。
なにも悪いことをしていないのに、なぜ、生きて行くのにこんなに苦労しなければならないのでしょうか?

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いくら聞いても、国の難民申請認定のプロセスはよくわからない。
困っている人が目の前にいても、何年も手続きがかかったあげく、特別活動というビザが出ても、半年おきに更新、手数料4000円、というのはなんなんだ。
と、憤っても、少しも状況の「足し」にはならないのでしょうが、この難民問題を解決するのは受け入れ側の対応が変わる以外にありえないことは明らかです。
なぜ、変わらないのかといえば、外交問題があったり、申請者1600人を多いと思うか、少ないと思うか。
国内にはもっと大事な問題があるのだ、というのでしょうね。

いえ、そうではない。ひとりでも、明日に希望が持てない子どもがいるならば、その子のために一緒に未来を考えるべきでしょう。
それが、日本の子でも、外国から来た子でも。
気が遠くなるようなことかもしれないけれど、まずはひとりひとりが声をあげることしかないのかもしれません。

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難民支援協会ほか、民間団体で難民支援に関わっている団体はいくつかあります。

  • アムネスティ・インターナショナル日本
  • カトリック東京国際センター
  • 全国難民弁護団連絡会議
  • さぽうと21
  • 難民・移住労働者問題キリスト教連絡会
  • 日本国際社会事業団
  • 日本福音ルーテル社団
  • 日本弁護士連合会

また、難民支援のサポートに気軽に参加できる試みもたくさんあります。難民支援協会のHPにイベント情報が載っています。
「サポートストア」というオンラインの書店では、本をそのサイトから注文すると、売上の一部が難民支援協会への寄付になります(自分が払うのは本の代金と送料のみ)。

つどうよろこび

明日は、半年以上準備を重ねてきた超教派のクリスマスのお祝い企画当日です。

午前中に、教団の教会の厨房におじゃまして、教団教会員の相棒と、冷凍しておいたゆであずきをお鍋で伸ばしてお汁粉を作り、プログラムに印刷物を挟み込み、午後には子ども企画の会場である聖公会の教会にプログラム300部を置いてきました。
そして後は夜に、所属のカトリック教会の聖堂でミニコンサートのリハーサル。そうそう、会場の見取り図をプリントアウトしなければ・・・

昨年も、この企画の記事を書きました。
あれから1年たったんだ。
無我夢中だった昨年と比べて、今年は準備も楽しかった・・・。明日で、それが終わってしまうのが淋しいくらいに。

忘れてしまわないうちに書き留めておきます。
今日、市内をあちこち車を走らせながら気づいたことを。

クリスマスって、なんだと聞かれたら、どう答えますか?

救い主イエス・キリスト、という言葉を使わずに、どうやって、キリスト教ではない人に説明できますか?

いろんな説明ができるでしょう。模範解答もあるのでしょうが。

私は、「あなたはひとりじゃない、っていう日のことですよ」、と答えます。

別の、管理しているサイトで「わたしのクリスマス」というアドベント企画をやっているのですが、寄稿された文章のほとんどが「人との交わり、家族のきずな」についてのものです。思い出のクリスマスには、いつも愛する人の影があります。
そう、クリスマスのお話も、クリスマスソングも・・・

そして、今年も、この超教派のクリスマスの企画を準備する長い「アドベント」は、人と人を結びました。
「違い」を知ることから始まって、「同じ」ことがわかってくる。
一緒に働いてみなければ、はじまらない、わからない。
「違う」のが当り前な人々が集って、集って、一緒になる・・・
今年のテーマは「つどうよろこび」です。

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きわめつけは「インマヌエル」というキリストのもうひとつの名前。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)

復活のイエス像の話

jesus1私が関わっている修道院に写真のようなイエス像があります。

大きさは140センチくらいで、復活のイエス像と思われます。

以前、神父様やシスター方から聞いた話では、某プロテスタント教会の牧師先生から預かったもの、ということでした。それ以上の来歴は誰も知らず、その修道院の簡素な雰囲気とはちょっと違うかんじで、廊下の隅に安置されていました。

しかし、あまりにも傷みがひどく、場所もとるし、処分の話が出てきたのです。

聖像、聖具の処分はいろいろと面倒で、粗大ごみに出すわけにもいかず、地中に埋めるか、焼くか、どちらもこの大きさでは不可能です。

それに、傷んだから処分というのもあまりにも忍びない。いずれ朽ちていく運命としても、せめてその来歴を知りたいと思い、私は調べてみることにしたのです。だいたい、なぜプロテスタントの教会にあったのか??

今は異動になってしまったシスターに電話をかけて、このお像を持ち込んだ牧師先生が誰か、思い出してもらうことにしました。

「思いだせないわねえ・・・」と言っていたシスターが半日後に「思い出したわ!!」と電話をくれて教えてくれたのは、品川にある単立教会の名前でした。牧師先生の名前は思い出せないとのこと。さっそくネット検索したら、幸いその教会にはHPがあって、私はその教会宛にメールを送ってみたのです。

一日もたたずに、牧師先生からお返事がきました。

その聖像を修道院に委託したのは、先代の牧師先生で、20年ほど前のことであろう、ということ。それ以上のことは知らないが、その聖像を修理した彫刻の保存修理の専門家の名前は覚えている、ということ。ただし、彼の連絡先は知らないこと、など・・・。先代の牧師先生はそのお像を自腹で修理したこと・・・。

保存修理をする場合、必ずその美術品について調査をします。ですから、その、保存修理の専門家を捜し当てればかなり詳しいことがわかるのではないかと思いました。幸いその方の名前がかわった苗字であったので、牧師先生も覚えていたのですが、またまたネット検索してみたら、それらしき名前がいくつかヒットしました。それで、ある木彫工芸品を扱うサイトに彼の名前を見つけ、そのサイトにメールをしてみたのです。

一日後に返事がきました。

そのサイト主は目指す彫刻家の知り合いであり、彼に連絡をとってくれるとのことで、こちらの連絡先を教えて、しばらくしてからご本人から電話がきました。

なんとも、まあ、こんなにすんなりとわかるとは思ってもみませんでした。イエス様、やっぱり処分は望まれていないのかな。

その彫刻家の話では、牧師先生は品川にある某寺院(かつてフランス大使館員の宿舎のひとつだったらしい)からお像を預かっていたこと。その寺院に、おそらく50年以上あったのだろうということ。修理時の調査によれば、素材となっている木材は日本には無い種類の、おそらくフランス産の木材で、彩色やそのスタイルから日本でいえば明治初期、遡れば150年以上前の製作であろう・・・

彼は、牧師先生から相談を受けた時、東京芸大で保存修理を教えていたので、学生たちの勉強にもなるということで修理を引き受けたのだそうです。しかし、こういうお像の修理の前例がなかなかなくて、苦労した、とおっしゃっていました。持っている旗に書いてある文字について、イエズス会の司祭に照会した、とも話していました。

「・・・そうですか。カトリックの修道院に引き取られたことは知りませんでしたが、よかったです。あるべきところに引き取られて。」
甘いマスクまつ毛があるんです

明治初期、フランス、とくればパリミッション会です。

おそらくパリミッションの宣教師がフランスから持ってきたか、信徒に言付けて送ってもらったものでしょう。

それがなぜ、お寺に眠っていたのかは知る由もありません。

長い月日、復活のイエスはお寺、プロテスタント教会、といったカトリック以外の人たちに守られていたわけです。まあ、お寺では、おそらく忘れられていたのだと思いますが、少なくとも、捨てられはしなかった。

聖像や聖画は、それ自体が尊いわけではありません。所詮はいつかは滅びるものです。

もの、に郷愁を感じるのは、信仰とは別の次元のことですが、150年の歳月と、それにかかわった人の思いを想像すると、なんとも心が動かされました。

処分、はとりあえずやめてもらいました。実際、不可能ですし。あいかわらず、場違いに、修道院某所にひっそりと安置されています。誰かが、お花を供えてくれています。

我が家のリビングにかかっている「最後の晩餐」と「絶えざる御助けの聖母」の画は、某教会のバザーに出ていたもの。

200円くらいで買って、額縁を開けてみたら、1950年代のコロンバン会の会報が入ってて驚いたことがあります。

宣教師、がぐぐっと身近に感じた一瞬でした。

古風な復活のイエス像探偵団を終えて感じたある種の感動は、やっぱり、そこにつながるのかもしれません。

キリストのからだ

幼児洗礼でしたが、両親が事情があって教会から離れていたので、初聖体の勉強ができず、はじめてご聖体をいただいたのは大学に入ってからでした。

子どものころ、時々母に連れられて大祝日のミサに預かりました。母は本当は敬虔な人でしたので、隠れるように、ミサに参列していました。子ども心に、私たちは歓迎されていない、よそ者だなあ、と感じていましたが、決定的なのは聖体拝領。私はもちろん初聖体の準備がすんでいないのでだめ。(しかし、当時はなんでだめなのかも知らなかった!)母はずっと赦しの秘跡を受けていないから、と自分から拝領しなかった・・・。
そのころはまだ第二バチカン公会議の前のなごりがあって、拝領台にずらっと並んでひざまずいた信徒の口に神父様がひとりひとりご聖体を入れていく、というやり方で、その厳粛な雰囲気、ミサのクライマックス(と、感じられた)は、子どもにはそうとうなインパクトがありました。

田舎の教会で、誰がいつ来てるか来てないか、みんなわかってしまうような教会。

のけもの親子はミサが終わると、逃げるように帰りました。

今は、赦しの秘跡がどうの、などと誰も言わないし、子どもも初聖体前には祝福がいただける。カトリック信者でない人も、希望すれば祝福していただけるようになりましたが、離婚した方とか、いろいろ事情があってご聖体がいただけない方もいる、という話を
ごくたまに聞きます。

*****
聖体の秘跡。秘跡は、神秘ですから、そう信じるか信じないか、という信仰の問題。

しかし、昔イタリアで「これは本当にキリストのからだなんだろうか?」と疑った神父の聖変化したご聖体が肉に変わったとか、その肉のご聖体が腐らずに残っているとか、すごい話もあって、あれは象徴だ、などと言いきれない迫力があるのも事実。

聖体訪問という信心業がありますが、あれはとてもいい、という実感もあります。

今のわたしにとっては、信仰の旅路を歩むための、大きな助け・・・というかんじです。

*****

昨年の、超教派のクリスマスの集いで問題になったのは、実は、カトリック教会でプロテスタントの方々とは「ミサ」はできないということでした。ぎりぎりまで、検討したのですがやはり難しい。
ネックは「ご聖体」です。

聖地巡礼など、カトリックとプロテスタントの方が混合でいらっしゃる場合、同行司祭は聖変化したホスチアと、しないホスチアを両方用意して、おなじように拝領した、という話もあるし、ラルシュのようなところではミサがある場合はカトリックプロテスタントを問わずに拝領するケースもあるらしい(確かではないですが)。

でも、キリストのからだ、で同じキリスト者が心を痛めるなんて、おかしな話です。

要するに、ご聖体は、カトリックの信仰の神秘。
私にとっては助けになるけれど…神秘、信じるか、どうか、というものなんですよね。

これからはカトリック、プロテスタントを問わずに、キリスト者がこの世に向けて証ししていく時代になると思います。
そして、一緒に祈る機会も多くなると思う。

そういう時、同じ典礼を味わえない痛みというものは、同じように引きうけていかなければならないものなんでしょう・・・

ミサにプロテスタントの方がいるかどうか、黙想会などでは司祭は気にしています。
傷つけることがないように、という配慮です。
司式司祭も、痛みを感じているのです。

霊的聖体拝領、というものがあります。
これは、事情があってミサにあずかれない人が、祈り、ふさわしい準備をして、霊的に聖体を拝領することを望む、というものです。

祈るとき、私たちが必要としている時には
イエス様は、ダイレクトにわたしたちのところに来てくださっているはず。

聖体拝領の時、ご聖体をいただかないプロテスタントの方、初聖体前の子ども、洗礼志願者のところ、みんなのところに、霊的にはイエス様は来てくださっていると思うのです。

アドベントのみのり

もう1カ月近くたってしまいましたが・・・

春先からかかわってる超教派のクリスマスイベントが12月12日に催されました。

歴史のある催しなのですが、それだけにマンネリになって参加聖歌隊の発表会の様相を呈していました。

歌の好きな人にはいいんですよ、それでも。
えっと、もっと正確に言うと、歌を歌うことが好きな人には。聞く方は、ちょっと苦しいかもね。

で、いろいろ賛否両論があって、今回はまったく趣向を変えて、打って出ました。

宣教と、各教派の交流をはっきり自覚して、例年にない企画。

久しぶりに市内のカトリック、プロテスタントの教会教職者が会合を持って、どんな祈りの会にしたらよいかを話合いました。

・・・結果は多分大成功。カトリックの大聖堂の祭壇上に並ぶ教職者を見て、こんな日が来ることを半年前にはだれも想像していなかったことを思って感無量でした。

もちろん、ミサでもなく、聖餐式でもなく、形式的には中途半端な祈りの会だったかもしれませんが・・・

イエス様が望まれているのは、一致。互いに愛し合うこと。

そして、クリスマスというのは、それが全人類に啓示されている日であることを思うと、

この日は「実り」であったと言う以外ありません。

もちろん、準備の過程では、冗談じゃなく胃が痛むような激論も交わされて、そうとうに消耗しましたが、あきらめなくてよかった。

理解し合うには、共に働くこと。理解しようと自ら踏み出すこと。

そしてなにより、ここにイエス様が居たならば、と想像してみること。

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その日の教団の牧師先生のお説教は、希望についてのお話でした。

アドベントという言葉は待つ、という意味だけでなく、あちらから来る、という意味があること。
アドベンチャー(冒険)もアドベントから出た言葉で、あちらからやって来る未知に向かって踏み出すことがアドベンチャーである、ということ。
旧約の民はずっとずっと待っていたけれど、私たちは希望しなければならない。勇気を持って、未来へ踏み出す。愛することに憶病になってはいけない、というお話でした・・・

タイムキーパーとして祭壇脇でドキドキしていた私でしたが、お説教を聞いて、じんと来ました。

長い長いアドベント。
救いの歴史が、はじめて身に染みたような気がしました。

聖公会の聖餐式にいってきました

先日、聖公会の聖餐式に出た。

その教会は由緒ある建築物として有名だったのだけど、外装は一新、ずいぶんモダンなかんじになっていたので、一歩聖堂に足を踏み入れて、タイムスリップしたみたいな気分になった。・・・聖堂の内部は昔そのもの。ヴォールト風の天井、欄間の笹竜胆の透かし彫り・・・創建は昭和初期というが、古い記憶の中でいつか出あったことのあるような、聖堂の姿。

そして始まった聖餐式は、ところどころカトリックと同じだったり、順番が違うだけだったりで大きくとまどうことはなかった。

しかし、第二バチカン公会議後の、今のカトリックのほうが、はるかにくだけているというか・・・
いや、むしろ聖公会のほうが、昔の色を強く残しているのだろうと思う。

聖体を拝領する前に、司祭が胸を打つ。痛悔のしぐさなんだと思うのだが、カトリックでそんなことをする神父は80代にしかいないのではないかしらん。

頂いたパンまで、なんだか昔の味?というか、虫よけの香りがしたような??

*********
この聖堂で祈ってきた人がいるんだな、という実感。

ここで出会ったイエス様ってどんなかんじなのかな。

どこの聖堂に行っても、そう、考えてしまう。