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イエスの傷口

今日の福音。ヨハネ20章19節~29節

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

今日は所用があって、川崎市の某教会におじゃました。そこでのE師の説教。
・・・・・
私が児童養護施設で働いていた時の話です。
いっしょに遊んでいた男の子が、急に私の腕に歯を立てました。そして、しばらく、ずっと噛んでいた。だんだん、強く噛むのです。私は彼がなぜそうするかわかっていましたから、とがめませんでした。彼はぎゅうっと噛んできたのですが、他の先生が見咎めて注意したら、ぱっとやめてしましました。
なぜ、そんなことをしたのかというと、大人をなかなか信用できない不器用な子というのは、時々そういうことをします。
この人はどこまでゆるしてくれるかな、と、ためしているのです。
信用できる、受け入れてくれる人、というのは、痛みを与えられても耐えてくれる、ゆるしてくれる人だとわかっているからです。
今日の福音で、トマスはイエス様が最初に弟子たちのところに現われた時、その場にいませんでした。
彼は、おそらくイエス様に非常に期待していて、受難の事実を目の当たりにしてとてもがっかりしていたのだと思います。
それで、皆がイエス様を見た、と言っても素直になれなかった。信じる気持になれなかったのです。
それで、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」といったわけです。
そして、イエス様がふたたび現われた時、トマスもそこにいました。
イエス様は、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言いました。
イエス様の手にも、脇腹にも、触れば血が吹き出るようなひどい傷跡がありました。
釘で打たれ、槍で刺し貫かれたのですから。
そこに手を入れるということは、物凄い痛みを伴うことです。
それをゆるす、ということです。トマスに、触ってみなさいと。
トマスは、傷に触ったのでしょうか?おそらく触っていません。
触らなくても「わたしの主、わたしの神よ」と言えたのは、トマスの心の大きな痛みをイエス様がその傷の痛みをもって引き受けてくださったからです。
・・・・・ここまで、お説教。・・・・・・

以下、感想。

イエス様の傷については、漠然と、渇いてぽっかり穴があいているようなイメージを抱いていました。
復活した時に、みんななおっちゃってもいいものなのに。とも。
本物の証拠に残しておいたんだろうかと(爆)

触れば、血の吹き出る傷。けして癒えない傷。そんな傷が、イエス様の身体に残っているなんて・・・・思ってもみなかった。

*****
3月5日に、実母が帰天しました。

末期がんで、延命治療を断って、骨と皮に痩せて、それでも心は平安に、晴れた弥生の空に逝ってしまいました。

気持ちの整理をつけようとしていた矢先に、3月11日が来ました。

その日私は、いろんな巡り合わせで、「自分が壊れる」ことを体験しました。

永い3月。そして、震災をめぐって、私はものすごい力によって、今まで住んでいた小さな世界から放り出され、戦場のような息をつくひまもない世界に移されました。(ごめんなさい。抽象的すぎてわからないでしょうね。)

そして、新しく生きるために、いくつかの決心をしたのです。

いつ、今日でおしまいになってしまうか、わからない。だから、あらゆることをごまかさない。自分に対しても、相手に対しても、徹底的に誠実であろうと。わからないことは、調べ、聞く。誠実であるために。

ありにままに見つめることは、ひどい痛みを伴うことがあります。自分のこと、大好きな人のこと、この、世界のこと。
泣きたくなるくらい、痛くなる。

傍らに、Jesusがいることは、感じていました。でも、今日のお説教を聞いて、その傷口を感じたのです。

ようやくブログを書けたのは、そのおかげです。

明日から、釜石です。

『マルガリータ』―マルタの哀しみ

『マルガリータ』(村木嵐 文芸春秋社)という小説を読みました。

小説を読む気持ちの余裕もない生活をしているので、ほんとうに久ぶり。しかし、自分で選んだわけではなく、H神父がTさんから勧められて一読。「これ、おもしろいねん。」とまた貸ししてもらったのが縁で・・・

主人公は天正遣欧使節のひとり、千々石ミゲル。4人の中でただひとり棄教した評判のよくない男の話です。

この小説は松本清朝賞を受賞したこともあって、カトリック新聞には「天正遣欧使節の4人の友情を描いた小説」と紹介されていました。

たしかに、そうなのだ。そして、キリシタン禁教時代に生きたキリシタンたちの苦悩とか、棄教した人々の思いなどが、共感できる筆致で描かれています。(遠藤周作のは読んでいて苦しすぎるので)

ミゲルが棄教したのは政治的な思惑も絡んでいて、内心では棄教せず、ひそかに中浦ジュリアンをかくまっていた、という筋書き。

H師などは「そういう見方もあるのか」と、このあたりに関心を持っていたようですが。

私はちょっとちがいました。

この千々石ミゲルの妻が「珠(たま)」といって、真珠は南蛮語で「マルガリータ」というので、この題名は妻「珠」のことで、主人公は「珠(たま)」である、という読み方もひとつのスタンダード。しかし、この物語には、もうひとり、ミゲルの従姉妹で「まりいたさま」と言われる美しく聡明な姫が登場します。物語の後半で、「まりいた」というのが実は「マルガリータ」のことだと明かされるので、「マルガリータ」とは「たま」であり、「まりいたさま」なのです。

このふたりと、聖書の『マリアとマルタの物語』が、絡み合います。

このふたりは、ともにミゲルの理解者であり、生涯を伴走することになるのだけれど、「たま」は教養もなく、ただひたすらミゲルを慕う直情型の女で、キリスト教も、ミゲルが信じるから信じる。ミゲルが棄てるなら、棄てる。ただ、ミゲル一筋に尽くす。だから、ミゲルには「たまはマルタだ」と言われ、自分でもそう思っているわけです。

一方、「まりいたさま」は美しく、優しく、教養もあり、ミゲルと信仰をわかち合うことができる。「たま」が理解できない部分でミゲルと深くつながっていて、まさに「マリア」。

「たま」は全力投球、体当たりの人生をミゲルに奉げつつ、自分だけのけものである、とつねに淋しさを感じているわけです。

死の床で、ミゲルは「まるがりーた」と言ったように聞こえたのですが、それが「たま」なのか、「まりいた」なのか、ミゲルの死後も彼女はわからないまま。

しかし、あな吊りになって殉教する直前の中浦ジュリアンに接して、彼の中に生きている亡き夫ミゲルを感じて、マルタはマルタとしての在り方を静かに受け入れていくのですが・・・

『マリアとマルタの物語』は、あまり好きではありません。どっちがよくて、どっちがよくない、という話になってしまいますから。

女性の大半は、自分はマルタだと思っています。

マリアが、マグダラのマリアだとされることが、なお一層、女性陣の態度を頑なにします。

・・・イエス様もやっぱり、美人のほうがいいのよね。私なんて、いっつもおさんどんよ!(怒)

と、こうきますよ。私の姑など、まさにこの勢いで霊名をマルタに選びました。

働いても報われず、なおかつイエス様にたしなめられる。しかも、聖書では有名な箇所で、、、マルタは気の毒ですね。

聖書のマルタはともかくとして。

天草四郎がミゲルとまりいたの子だという推測めいた挿話もあるのですが、ミゲルとまりいたはプラトニックな関係に描かれています(まりいたには大変な善良実直な夫がいます)。一方、たまはミゲルと結婚し、子どももいるわけです。たまにとって、その二人の子どもこそがミゲルとの絆の証しでした。

しかし、心の絆はというと、身体的な絆を超えていました。誰にもなんの落ち度もないのですが。

濃厚な絆。なんの通信手段もないのに、ミゲルが窮地に陥ると、いつもまりいたの助けの手が差し伸べられることにたまは不思議でならないのですが、テレパシーめいた濃い絆が二人の間にはあったのですね。

これはお手上げです。私の読みでは、たまは完敗です。

作者がカトリック新聞のインタビューで話していたように、「たまのような名も無い信者が時代を進めていった」ということは事実です。

そして、彼らももしかしたら、たまのようにずっとキリスト教に「のけものにされていた」気持ちを抱いていたかもしれません。

いくら尽くしてもその奥まで入り込めないもの。

あこがれつつも理解しきれない淋しさ。

マリアになれない哀しさ。

ずっとひっかかっている棄教者「不干斎ハビアン」の生き方とも通じる日本人とキリスト教の関係に近いなにかを感じてしまいます。

個人的には、まりいたさま、好きです。たまは苦しすぎます。こういう立場はいやだなあ。

もしも私が難民だったら

昨夜、聖イグナチオ教会メルキゼデクの会で、『日本における難民のこどもたち』という講演会を聞いてきました。お話は、難民支援協会の古藤吾郎さん。パワーポイントを使ったわかりやすいお話でした。
古藤さんのお話をもとに、自分なりにまとめなおしてみたのが、以下のストーリーです。

*****

私の名前はAといいます。15歳です。両親と、ふたりの弟と、東京のB区に住んでいます。
私たちの祖国は内戦状態で、私たちの属する民族は少数派なので、酷い迫害を受けていました。父は、私たちを守るために、日本のビザを手に入れました。そして、父が8年前、私たちは3年前に日本に来たのです。その時はまだ、下の弟は生まれていませんでした。
私たちのように、迫害のおそれのある国籍外の国にいて、迫害の恐怖のために国籍国から保護をうけられない人のことを『難民』というのだそうです。(1951年難民条約)

小さなアパートを借りて、父は知り合いから紹介してもらった飲食店で働いていました。本当は、働く許可はなかったのですが、お金がないので仕方ありませんでした。
ところがある日、突然、入国管理局の人が来て、父を連れていきました。ビザが切れていたのだそうです。
父はそのまま連れていかれて1年間、帰って来られませんでした。

入国管理局に入ってから、難民支援協会の人に父は難民申請をすることを教えてもらいました。難民として認定されるのは日本では非常に難しいのだそうです。(2008年の場合、1599人が申請して、認定されたのは57人。人道的配慮による在留特別許可は360人。ほかはすべて不認定。)
それに認定手続きにはとても時間がかかります。(平均2年。5年以上かかる場合もある)
1年たって、『仮放免』になったのですが、収容所から出るために、保証人と、50万円の保証金を知人たちから借金しなければなりませんでした。
家族も同時に『仮放免』扱いになりましたが、仮放免は在留資格はなくて、いつ収監されるかわからないのです。B区に外国人登録をしていますが、ちゃんと「在留資格なし」と書いてあります。やっぱり就労許可はないけれど、働かないわけにはいきません。

今のところ、在留資格がなくても、私たちは学校にも行けるし、難民申請をしているので、RHQ(難民事業本部)から保護費も出ます。でも、在留資格がないから、保険には入れないし、RHQは医療費は後払いです。だからなるべく医者にはかからないようにしています。弟が生まれた時は、病院で一度断られたそうです。母は日本語がよくわからないので、いろんな保障についての話もよくわかりません。
家族の中で日本語が一番わかるのは私です。役所の人に、通訳したりするので、こんなこともよくわかるようになりました。
弟たちと私は日本語で話すけど、両親は母国語で話すので、両親は私たちが何を言ってるのかわからなくて、時々悲しくなります。

普通の学校の友達と同じように、中学生らしい生活がしてみたいです。弟が小学校に入った時は、難民支援協会に寄付のあったランドセルをもらいました。弟はとてもうれしそうでした。
高校は本当は行きたいけど、行きません。両親を助けて働きたいです。でも仕事もなかなかないようです。
いつまた父が収容されるかわからないし、仕事もないし、学校にも行けない。いったい将来どうなるのだろうと、不安です。
同じ国の出身の人でも、民族によっては敵同士ということもあるし、私たちが日本で難民申請をしていることがわかったら、本国の親戚に迷惑がかかることもあるそうです。だから、打ち解けて関わるコミュニティもありません。

私たちは、犯罪者ではないのです。それなのに、いつつかまるかとびくびくして暮らしています。
なにも悪いことをしていないのに、なぜ、生きて行くのにこんなに苦労しなければならないのでしょうか?

*****
いくら聞いても、国の難民申請認定のプロセスはよくわからない。
困っている人が目の前にいても、何年も手続きがかかったあげく、特別活動というビザが出ても、半年おきに更新、手数料4000円、というのはなんなんだ。
と、憤っても、少しも状況の「足し」にはならないのでしょうが、この難民問題を解決するのは受け入れ側の対応が変わる以外にありえないことは明らかです。
なぜ、変わらないのかといえば、外交問題があったり、申請者1600人を多いと思うか、少ないと思うか。
国内にはもっと大事な問題があるのだ、というのでしょうね。

いえ、そうではない。ひとりでも、明日に希望が持てない子どもがいるならば、その子のために一緒に未来を考えるべきでしょう。
それが、日本の子でも、外国から来た子でも。
気が遠くなるようなことかもしれないけれど、まずはひとりひとりが声をあげることしかないのかもしれません。

*****

難民支援協会ほか、民間団体で難民支援に関わっている団体はいくつかあります。

  • アムネスティ・インターナショナル日本
  • カトリック東京国際センター
  • 全国難民弁護団連絡会議
  • さぽうと21
  • 難民・移住労働者問題キリスト教連絡会
  • 日本国際社会事業団
  • 日本福音ルーテル社団
  • 日本弁護士連合会

また、難民支援のサポートに気軽に参加できる試みもたくさんあります。難民支援協会のHPにイベント情報が載っています。
「サポートストア」というオンラインの書店では、本をそのサイトから注文すると、売上の一部が難民支援協会への寄付になります(自分が払うのは本の代金と送料のみ)。

自然な家族計画の話

ローマ法王ベネディクト16世が、避妊器具・・・ようするに、コンドームの条件的使用を容認するような発言をした、と昨秋報道されました。

【ローマ=柳沢亨之】21日付バチカン紙オッセルバトーレ・ロマーノは、ローマ法王ベネディクト16世がコンドーム使用について「正当化される場合があるかもしれない」と発言した、と報じた。

 法王がコンドーム使用を一部容認する可能性を公言したのは初めて。

 発言は、ドイツ人記者とのインタビューを収めた23日出版の新著からの引用として報じられた。それによると、法王はコンドームの使用を「しんのHIV(エイズウイルス)感染対策ではない」とした上で、売春者を守る目的での使用は「倫理的に正しい方向となり得る」と語った。

 カトリック教会は「性交渉は妊娠のための行為」との立場から、経口避妊薬やコンドームなど人工的な避妊を禁止。現法王は昨年3月、アフリカを歴訪中に「コンドームはエイズ予防に役立たない」と発言し、エイズ対策団体などの強い反発を招いた。

※この記事の著作権は、ヤフー株式会社または配信元に帰属します

この問題はふたつに分けて考えなければなりません。
ひとつは避妊について。
もうひとつはエイズの問題。

教皇庁はコンドームはだめ、と言っていますが、それは教義上、「避妊は認められないから」であって、コンドームの是非が論じられたころはエイズの問題など、想定外だったことを忘れてはいけません。
だから、もし性病予防とか、エイズ感染を防ぐことに有意であれば、婚姻関係にある男女が、避妊を目的でなく使う場合ならばコンドームの使用は問題ないのかもしれません。あくまで推測ですが。
売春者を守るため、というのは原本を読んでいないのでわかりませんが、実情に即した話で、私は評価できると思います。

ですからこの記事でのポイントは、エイズ予防のためのコンドーム利用にバチカンが一定の態度を示す可能性がある、という点でしょう。しかし、エイズ予防にコンドームは役に立たない、というのがバチカンの公式見解です。

さて、ここからが本題で、「カトリックは避妊はだめ」という常識について。
上の記事は以下の問題のすり替えめいたずるさがあります。
カトリックは避妊はだめ=コンドームはだめ   は、  コンドームを容認=カトリックは避妊を容認  ではない!ということです。

しかし・・・
「性交渉は妊娠のための行為」で、ありながら、教皇庁が認めている受胎調節法があります。「避妊法」ではないところがポイントですが・・・

「自然な家族計画 ビリングスメソッド」というもので、オーストラリアのビリングス博士夫妻が提唱したものです。女性の排卵周期を頚管粘液の状態から推測して、排卵が予想される時の禁欲によって受胎調節をします。

私はこのメソッドの指導員の資格があります。
中心になって指導をしてきたアイルランド人の神父様が高齢のため本国に帰られて、日本での活動は下火になってしまったのですが、今でも1年に1,2人から電話がきて相談に乗ることがあります。
多くは日本人男性と結婚したアジアや中南米の女性からです。カトリックの教えを忠実に守ろうと苦しんでいる方々でした。

たしかに、このメソッドはすぐれていると思います。

このメソッドのよいところは、女性が自分の身体を大事にするようになること。
身体の声をきちんと聞けるようになることです。
そして、ほぼ正確に排卵日がわかるので、妊娠を望む人には大変喜ばれました。これで赤ちゃんを授かった方は何人もいます。

しかし、このメソッドを受胎調節に使う場合、鍵になるのは「禁欲」。「禁欲」はひとりではできません。

アジア、アフリカの国々でこのメソッドを普及させるのは、文化への挑戦みたいなところがあります。

まさに、この「禁欲」が、カトリックのセンスなのですが、「禁欲」できるには、相手への深い尊敬と、愛情が必要なのです・・・ですから、ビリングスメソッドは、受胎調節法でありながら自然な家族計画と呼ばれるのです。

****

しかし。

十年以上前に、このメソッド普及のための小冊子に私が書いた証しを先日読み返したのですが、あまりの傲慢さに赤面しました。・・・人は順風満帆の時はなんとでも言えます。
相手への真の愛があれば禁欲できる、なんてことを平気で言える。

「真の愛」も知らないくせに。(真の愛は、神の愛しかないかもしれませんが。)

「真の愛」ってなんだ。

男女がお互いを求めるのは、結ばれることによって完成されるなにかを予感しているからではないかとこの頃思うのです。

それは「子作り」だけじゃありません。

核融合じゃありませんが、人格が融け合い、ぶつかり合って、まったく別の次元に変容するなにか。
自分が変わってしまう覚悟があるか、という瀬戸際までいくことができるか。
自分を与える、というのはそういうことでしょう。

そういうめぐりあわせというのは、やはり、神の采配がなければありえないと思います。

相手を自分のために支配したり、利用したりする関係では、この核融合はおこりません。
言葉は悪いですけど、自分が変わるつもりがないのならば、相手を「利用している」のではないでしょうか?
多くのカップルは、意識する、しないに関わらず、このステージに留まっているのではないかと感じます。(私も含めて)
そのままでうまくいくこともあるでしょう。お互いを「尊重する」というやつですよ。

そのレベルで、「真の愛」とか、「禁欲」は無理です。
掟を守るために苦しむだけです。ちっとも自然じゃないのです。不自然な家族計画ですよ。

「掟」があって、不完全な人間がそれにあわせて行く。
なんだかおかしいと思うのです。

「真の愛」に達したふたりが、結果的に「禁欲」を選んだとしたら、それはまさに「自然」にそうなった「家族計画」でしょう。これは理想です。

では、どうしたらよいか。これをはっきり言う勇気はまだありませんが、「掟」は人間のためにあるべきだということです。

できれば、「核融合」の起こる結びつきでありたい。
成長できればそれもよし、ですが、、、、はたして、、、、。

いずれにせよ、軽々しく「真の愛があれば禁欲はできるはずだ」などとは言えません。

性愛の問題は、人間の生そのものですが、その霊性について、誰が教えてくれるのでしょうか?

これは、信徒の霊性であると思います。
体当たりで深めていかなければならない問題です。

復活の朝に

ずいぶん更新が滞っていました。

いろいろと忙しかったこともありますが、個人的にかなり気持ちが低調で、ここのことまで手が回らなかった、というのが正直なところです。
大きなイベントを終えて、燃え尽き現象もあったのかもしれません。

そのイベントを通じて、心に触れた、ある確信を誰かにわかち合いたくてたまらなかったのですが、相手がいなかった!
一番わかち合いたかった人にはふられて?しまいましたし。

手に触れたかすかな聖霊の息吹は、ほろ苦い思いとともにまだ私の胸に留まっています。

たしかに、少し成長したかもしれないけれど、誰かにわかち合わなければ、私の中でけじめがつかない。

そんな思いを抱えたまま、過ごしてきました。

*****

なぜ、復活の朝の話かというと、やっぱり、マグダラのマリアです。

彼女がこんなに近く感じられる日が来るとは思っていなかったのですが、彼女が孤独の中でずっと耐えていた思い、わかち合えない思い、そういうものがとても親しく感じられるのです。

回心したとはいえ、他の女性たちとは多分心から打ち解けられなかったのではないでしょうか。
過ごしてきた経験が過酷であったこともあるし、
多分、彼女が心にたたえていたものを深く知っていたのはイエスだけだったでしょう。

復活の朝に、イエスは彼女に真っ先に現われました。(母マリアのことは、今はさておき)

聖書では

20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
ヨハネ20章14-18節

とあります。

この、「わたしにすがりつくのはよしなさい。」について、イエスはマグダラのマリアを諌めたのだという解釈が多いですよね。
女性の信者には、こういうタイプが多いとか、そんな話にまでなってしまう。
まあ、そうかもしれませんが、それだけじゃあんまりですよね。
だったら、まっさきに出てきたりしないでほしいです。いきなり突き放すなんて、いくらなんでも・・・
娘に言わせると、ここでマグダラのマリアはイエスに失恋したことになるんだそうですが・・・

ここからは個人的な妄想?です。

マリアは、イエスにすがりついたのだと思います。もちろん、イエスもそれに応えた。
ハグですよ。
だって、死んだと思っていた人が生きていたんです!
しかも、最愛の人が!
ハグしてあたりまえではないでしょうか?

しばし抱き合い。
イエスはやさしく腕をほどきながら、ささやくように、「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と言ったんです。
このハグで、マグダラのマリアはイエスにすべて受け入れてもらったことを確信したのだと思います。
この思いがあれば、この先、ずっとずっと生きていける。
この思いがあれば、この先、イエスにふたたび会えなくても、しっかり自分の足で歩いていける。

だから、彼女は最初の宣教者になれたのです。

*****

もしかしたら、それぞれの思いをしっかり受け止めてくれるのはイエスおひとりかもしれません。
それに気づいた日が、それぞれの復活の朝。

いえ、でも、弱い私は、やっぱり受け止めてくれる人が必要なんだけどなー。

つどうよろこび

明日は、半年以上準備を重ねてきた超教派のクリスマスのお祝い企画当日です。

午前中に、教団の教会の厨房におじゃまして、教団教会員の相棒と、冷凍しておいたゆであずきをお鍋で伸ばしてお汁粉を作り、プログラムに印刷物を挟み込み、午後には子ども企画の会場である聖公会の教会にプログラム300部を置いてきました。
そして後は夜に、所属のカトリック教会の聖堂でミニコンサートのリハーサル。そうそう、会場の見取り図をプリントアウトしなければ・・・

昨年も、この企画の記事を書きました。
あれから1年たったんだ。
無我夢中だった昨年と比べて、今年は準備も楽しかった・・・。明日で、それが終わってしまうのが淋しいくらいに。

忘れてしまわないうちに書き留めておきます。
今日、市内をあちこち車を走らせながら気づいたことを。

クリスマスって、なんだと聞かれたら、どう答えますか?

救い主イエス・キリスト、という言葉を使わずに、どうやって、キリスト教ではない人に説明できますか?

いろんな説明ができるでしょう。模範解答もあるのでしょうが。

私は、「あなたはひとりじゃない、っていう日のことですよ」、と答えます。

別の、管理しているサイトで「わたしのクリスマス」というアドベント企画をやっているのですが、寄稿された文章のほとんどが「人との交わり、家族のきずな」についてのものです。思い出のクリスマスには、いつも愛する人の影があります。
そう、クリスマスのお話も、クリスマスソングも・・・

そして、今年も、この超教派のクリスマスの企画を準備する長い「アドベント」は、人と人を結びました。
「違い」を知ることから始まって、「同じ」ことがわかってくる。
一緒に働いてみなければ、はじまらない、わからない。
「違う」のが当り前な人々が集って、集って、一緒になる・・・
今年のテーマは「つどうよろこび」です。

*****

きわめつけは「インマヌエル」というキリストのもうひとつの名前。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)

アロマ・マッサージ

足、というのは体の中でも酷使されているわりにはいたわられていない。
まあ、この頃は足裏のツボとか、健康は足から、みたいなブームもあるので、気を使っている人は使っているんでしょう。
あ、ペディキュアとか、きれいにしてる人もいますね!

私の足はひどいものです。
小学校のころ、裸足教育?がはやって、学校ではほぼ裸足ですごしたせいか、女らしいというには程遠い足でございます(泣)。
おまけに静脈瘤の後遺症で所々色素沈着。
とても他人様にお見せできるような足ではありません。

しかし、最近、あまりにも不憫な気がして、お風呂の後に香りのいいローションでマッサージしてみたりするのです。

これが、いい気持ちで。ほかほかしてきますね。・・・もう少し、自分を労ってやっていればよかったと後悔しています。

ベビー・マッサージというのもありますね。
赤ちゃんをできるだけ手でさわってあげると、心身の発達によいそうです。わかる気がします。

・・・それで、前々から思っていたことを、これから書いてみます。(唐突か!?)

ルカ福音書7章37節~38節
7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

この女はマグダラのマリアだと言われています。

香油、は非常に純粋なナルドの香油であったとヨハネ福音書にはあります。「家は香油の香りでいっぱいになった」と。

非常に大胆な行動です。
その頃の習俗はよく知りませんが、よその家にいきなり入ってきて主賓の背後から忍び寄り(!)アロマ・マッサージをしちゃうなんて!
おまけに、こともあろうに、イエス様に!
御身足を涙で濡らす!髪の毛で拭う!!さわっちゃう、マッサージしちゃうって・・・!!!
女性陣の大顰蹙の声が聞こえてきそうな話ですよ。

なんて、大胆な・・・(やっかみ半分。いや、もっとかも。)

女性として、ここからが肝心だと思うのですが、
自分と彼女を重ね合わせることができるでしょうか?

私は罪深い女です、とおっしゃる方はけっこういます。

でも、さすがにマグダラのマリアみたいに、とは思っていないでしょう。

人の悪口を言うとか、あんまり教会に熱心でないとか、夫や子どもを大事にしてない、けっこう私は意地悪だ、とか。
そういうのも、もちろん罪にはちがいないけど、マグダラのマリアは別格、普通の女子とは生きざまが違う、とどこかで思っていませんかね。

性的な罪深さ、というのは、直視しがたいものがあります。

端的なかたちなのは、彼女のように、性を売り物にしていたとか、不倫とか、いわゆる道徳的でない生き方のことです。
これらが直視しがたいのは、人間の根源にある欲望に触れているから。そして、それは誰もが持っている傾きであることを、実は皆知っているから。ではないか、とこのごろ思うのですが・・・
そして、それらは、一瞬のあやまちではなくて、たいてい、継続性がある。

聖ベルナデッタを描いた『聖処女』という映画があります。
ジェニファー・ジョーンズ演じるベルナデッタが、司祭に質問されます。
「罪人とは、どういう人のことかね?」
「罪を愛する人のことですわ・・・」

罪を愛する・・・

つまり、回心せず、ずっと、承諾して、その状態に留まる、ということです。

それがはっきりわかるのは、やはり愛憎の分野ではないでしょうか?

愛しい、憎い、やっぱり諦められない、どうしても許せない・・・etc

この年になると、だれでもそういう「どろどろ」の部分を持っているはず。持っていた、とか、少なくとも、わかりますよね。自分の問題として、思い出すことはあるでしょう。

「その時」だったら、、、私も「罪人」と自他共に認める状況だったかもしれない。
そして、「その時」だったら・・・

私もマグダラのマリアのように、イエス様に抱きついて泣いていたかもしれない。
愛しくて、アロマ・マッサージしてたかもしれない。

・・・そんなふうに、このごろ感じています・・・

サマリアの女

ヨハネ福音書4章7節~26節

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

この夏の黙想で心に残ったみことばです。

若い頃には少しも共感できなかったサマリアの女です。イエス様はなぜ、不道徳な女にご自分を表されるのか、わかりませんでした。5人の夫、というのはどういう背景かわかりません。好意的に見れば、死別したり逃げられたり、不運な女性なのかもしれませんが、聖書の学びの定番では、この女自体が不道徳であって、それでこんな昼日中の町の女たちが井戸に寄り付かない時間帯に水を汲みに来たのだ、といいます。
この女がどんな気持ちで過ごしていたのかは知る由もないのですが、世の中にがっかりして、その場しのぎに生きていたのではないか、そんな気がします。

そんな荒んだ女が、イエスと出会った。

(私の想像ではイエス様は男前ですので ^^;)女は内心ちょっと興味を持ち・・・でも、いい加減男にはうんざりもしていましたから、めんどうだな、と感じていたのかもしれません。

「水を飲ませてください」―ほらほら、来た来た。やーね、ナンパかしら?と、思ったかどうかは知りません。

それからのやり取りから、女の苛立ちが感じられるのはわたしだけでしょうか?

「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

―(なにを言ってるの、この人は!!!)汲む道具もなにのに、どうやって汲むっていうのよ。えらそうにしてるけど、ヤコブよりえらいわけ?!(と、蓮っ葉に言う)

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

―そんな水があるなら、ぜひ欲しいもんだわ。

******

ここで、イエスは、女の痛いところを突くわけです。
「夫を呼んできなさい」と。そして、彼女の公然の秘密を言い当てるわけです。

これは彼女の荒みの核心です。

事実を言い当てられたから驚いたわけではない、彼女の心の闇を見抜いたからでしょう。

その時、なにかが音を立てて崩れていったのです。

―この人はメシアかもしれない。

「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

*****

この後も話は続くのですが、ここではじめのイエス様とサマリアの女のやり取りに戻ってみたいのです。

「水を飲ませてください」
これは、イエスからの召し出しではないでしょうか?
それに対して私たちは、「なぜ、私に?」と、必ず問い返すでしょう。
私にできるわけがない、なんで私がこんなことを・・・・etc。不安と疑問でいっぱいになります。

「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
それがイエス様からのよびかけならば・・・・

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

そう、これがしるしです!
ほんとうに神の召し出しならば、そのミッションを果たすなかで、いくら苦しいこと、辛いことがあっても、「永遠の命に至る水がわき出る」のです!

自分の中に命の泉が湧き出ているか?
これを問うてみる。

しかも、荒みの中の女にでさえ、イエス様はミッションを投げかけているのです。

けして立派な信仰者にだけ働きが任されているわけではない。

共に歩むイエス、闇の底にさえ共にいてくださるイエスを感じます。

真夏の夜の…主の祈り

お寺とか、教会とか、つきものなのは幽霊。

お墓が近くにあったりすることもあるけれど、やはり、生と死の境界線のような、霊に出会う予感がするからでしょうか・・・

黙想の家も、わりと、そういう話はあります。

古い修道院だったりすると、なおさら。

*****

この夏、2泊3日で黙想に入りました。

完全に個人メニューの黙想だったので、自分なりに計画をたてて過ごしました。

普段、一人になることすら難しい生活をしているので、とにかく祈りにこころを向けていくことを心がけました。

それで、絶えず、心の中で主の祈りを唱えていたのです。

・・・・カトリックでは10年くらい前に主の祈りが口語体になりました。

私は文語体の主の祈りで育ったのですが、やはり、意味がすとんとわかる口語体にすっかりなじんでいます。

でも、お年寄りはなかなかそうもいかないようで、つい、文語体になります。

そういう人がミサで隣にいると、あれあれ??いつのまにかつられて私も文語で唱えていたりする・・・

・・・・で、主の祈りですよ。

夜、ベッドに入っても、意識がなくなるまで「天におられるわたしたちの父よ・・・」と、唱えていたんです。

ところが・・・どうしても、おしまいのほうにいくと、

「・・・我らを試みに引きたまわざれ、我らを悪より救いたまえ・・・」

と、なる。

おかしいな、と思いながら、眠ってしまったのですが、、、、、

翌日思い出して、これは、もしかしたら誰かが(もちろん、文語の祈りしか唱えない人が)いたのかな、と気がつきました。

不思議と怖くもなく、ぞっとしたわけでもありませんが、妙な確信が残りました。

誰でしょうね。

I LOVE JESUS

時々、つまらないことで(後になってそう気づくのだけど)落ち込む。

自分の価値を見失ってしまって、そう、自分の価値を、他人の評価やものさしで測ろうとしてしまう。

いいことなんて、ひとつもないのだ。そういう時は。

えーい、めんどうくさい。

やめちゃいたい。すべて。

現実が、すべて遠くなる。他人事のような、曇りガラスの向こうの風景。

ところが、そういう時にかぎって、小さな息子が、何気なく

「ママが一番好き」と言って、身体を預けてくるのだ・・・

涙が出る。リセットの瞬間。(はっと、われに帰る、というやつでしょうか。)

―Jesus、あなたですね。

・・・そう、わたしだ。

・・・ わたしの目にあなたは価高く、貴く・・・(イザヤ43:4)