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ある風景―古い原稿から

これも、PCファイルの整理をしていて見つけた文章。以前、幼稚園連盟の機関誌に請われて書いた原稿です。

もう、すっかり縁の切れてしまった故郷(そう、呼んでもいいのならば)。けしていい思い出ばかりではなかったけれど。

・・・昔話の得意だった亡き祖母、からかいながらもよく遊んでくれた叔父の思い出は、美しい自然とともに心に焼き付いています。

*****

もう、30年近く前に雪国に住む叔父から聞いた話である。

仕事で遠出した叔父は、秋の日の午後峠の道を車を走らせていた。

日暮れの早い山道はすれ違う車もなかったが、驚いたことに、とぼとぼと一人歩く老女。叔父は追いつくと車を停めて声をかけたのだそうだ。

峠の向こう側の村に帰るという彼女を助手席に乗せて、言われるままに本道から横道に入ると、昔ながらの造りの家々がひっそりと佇んでいた。

納屋の横手の柿の木は夕日を照り返して黄金色に燃え、かまどの煙のにおいがした。

老女に誘われるまま、叔父も車を降り、足下にどんぐりの実がざくざく鳴るのを感じながらついていくと、彼女はつっかえ棒を器用にはずして家の中に入っていった。

と、にわかに日が陰って冷たい風が吹きはじめたので、老女の帰宅を見届けたことでもあるし、叔父は引き留める彼女に挨拶して車に戻ったのだそうだ。良いことをしたという満足感の一方で、どうも腑に落ちない思いを抱えて叔父も家路についた。

老女の帰ったその村が何年か前に廃村になった村だと聞いたのはそれから2,3日あとのことだったそうだ。

「たしかに、人っ子一人いなかったよ。妙にしんとしていてさ。だけど、飯を炊くにおいがしていたような気がするんだけどね。」

昔話の『おしまい』のように叔父の話はそこでぷっつりと終わったのだった。

この話を久しぶりに思い出したのは、近所の邸宅が売りに出されて、太い銀杏の木が造成のために切り倒された後のことである。

その木は大人が二人で一抱えほどの大木で、夏には涼しい木陰を作り秋には黄金のそれはみごとな黄葉を見せてくれていた。

その木の立っていたところは、我が家にあと一息のきつい坂道の途中だったのだが、すっかり様子の変わった造成地を横目に坂道をのぼっている時、ふいに胸がしめつけられるような思いとともにまざまざとあの銀杏の大木が脳裏に浮かんだのである。

道いっぱいに黄金色の葉が散っている。競ってそれを拾い歓声をあげる子どもたち。懐かしい思いに胸がいっぱいになって目頭が熱くなった。

幻想ではない。記憶と言うにはあまりにもリアルな風景。

叔父の不思議な体験も、このたぐいのものかもしれない。

しかし、これは案外生活のあちこちに立ち現れている風景のような気がする。

それは亡き祖母の笑顔であったり、幼友達と走った夕陽の道だったり、蝉時雨の中、子どもと手をつないで歩いた夏の日だったり。

いつか経験したことかもしれないし、夢の中で出会った出来事であったかもしれないが、そこでは今も亡き人が生きていて、懐かしい時間が凝縮されて流れている。

―ああ、これがあるから私は生きていける。ここに帰る場所があるのだ―。

この時間は私達の時間と並行して流れているのだろうか?

どこか、扉を開けたら、いつでもその時に戻れるのだろうか?どうやら、私達の方からその時を呼び戻すことはできないらしい。私達が疲れて弱っている時に、突然、その風景は立ち現れて私達を癒してくれる。

その風景を、人は紡ぎながら生きていくのだ。

過去に紡いだ風景はゆっくりと熟成され、ある日ふいに、魂を生き返らせてくれるのだ。

クロアゲハ

我が家にみかんの木があるのだが、毎年アゲハチョウがよく来る。

先日、梅雨の晴れ間に羽化したばかりのクロアゲハが羽を広げるのに苦労しているのを見つけた。・・・越冬さなぎだったのだろうか?

それで、今日PCのファイルの整理をしていて見つけた古い原稿に思わず胸が詰まってしまったのだ。

2005年。今から5年前に、書かずにはいられなくて書いたものである。

今でも相変わらず難しい息子とのかかわりの中で、立ち止まってはここに戻ってくる。

*****

総じて虫の仲間は苦手である。

蚊、蜂、むかで、そしてゴキブリ、と、虫と言って思い浮かべるのは不愉快なものばかりだ。

小学生の頃、夏休みの自由研究用に父親が昆虫の標本を作るセットを買ってきたことがあった。ところがわたしはとんと興味を示さず、自然科学に興味の薄い娘に父親はひどく落胆したのである。長じても虫は大方「害虫」であって、気味の悪い生き物にしかすぎなかった。恥ずかしい話だが、虫同様植物にも疎く、人並みに区別がつくようになったのは自然の豊かな鎌倉の地に住み着いてからである。

我が家にはみかんの木があるのだが、引っ越してきて二年くらいは実をつけず、葉が茂るばかりであった。三年目くらいから、毎年小ぶりながら実を結ぶようになり、みかんの収穫は我が家の冬の行事となった。現金なもので、食べられる実がつくとなると、日ごろもみかんの木をよく眺めるようになった。

すると、よくアゲハチョウが来るのである。黄色いのや黒いのや、昆虫音痴のわたしにもアゲハチョウであることはわかった。アゲハは柑橘類の木の葉しか食べない、ということを子どもから聞いて、我が家のみかんの木が彼らの一生の重要な舞台になっていたことを知った。

*        *         *

さて、今年の夏のことである。夏には寄宿生活をしている高校生の息子たちも帰ってきて、我が家は定員オーバー気味。食事の世話はもちろんだが、大きくて声の太いものどもがあちこちに暑さでのびているとだんだんうっとおしくなる。つい、勉強はどうの、そんなことで大学はどうするのと言ってしまう。CDだか、MDだか、耳にコードをつなげたまま無視するのも憎らしく、ついにけんかとなる。

わかっている。わたしが悪いのだ。言い過ぎた。でも、わからない。いったいなにを考えているのか。

幸いなことに、息子だけにかかわってもいられない。のんきな小学生の娘の方は夏休みの宿題も親がかりである。自由研究に親が悩むのは今も昔も変わらないようだが、いろいろな実験のたぐいは手に余るので、昨年も今年も、アゲハが卵から孵って蝶になるまでの観察をすることにした。卵もえさも自宅で調達できるのだからこんなに楽なことはないのだが、無事、蝶になれるのは案外少ない。卵のまま孵化しなかったり、幼虫のうちに事故死したり、半分から三分のニくらいは死んでしまった。昨年も一羽だけ羽化し、今年もさなぎになったのは一匹だけだった。虫嫌いのわたしもさすがに(子どもの宿題もかかっているからか)毎朝飼育ケースを覗くのが日課になっていた。

無心に葉を食べている幼虫を見ていると、なぜだか息子が幼かった頃を思いだした。いもむしは愛らしい、とさえ思えてきた。

*         *        *

その朝は、台風が夜半に通り過ぎ、風景が、すべて洗いざらしたように白く眩しい夏の朝だった。

いつものようにケースを覗くと、さなぎが黒ずんでいる。さなぎになってもう二週間くらいたつから、羽化するならそろそろのはずだ。昨年はさなぎの中に黄色と黒の縞模様が透けて見えて、羽化の時期を知ることができた。ところが、今年のさなぎはなんとも黒く、心なしか干からびてきているようでもあり、いやなかんじであった。

夫も同じことを感じたようで、さなぎのまま死んでしまった場合の娘への対処を二人であれこれ話していた。娘はがっかりするだろうと、気を滅入らせながら家事をしていると、

「あっ。すごい、すごい。」

と、夫と娘の大きな声がする。つづいてカメラをとりに夫が走ってくる。

「今、羽化してる。クロアゲハだ。」

下の娘とわたしも駆けつけた。今まさに、蝶がさなぎから半身を出し、懸命に身を振りながらみごとな黒い羽を出そうとしているところであった。

「クロアゲハだったのか。」

夫とわたしは声にならない声で感嘆していた。

・・・・だから、さなぎが黒くなっていたのだ。

わたしたちは去年のナミアゲハのさなぎしか知らなかったから、さなぎに透けていた黒い羽の色がわからなかったのだ。死んで、腐ってきたのかと思っていた。どうやって捨てようか、とさえ考えていた。

その時、わたしの心に浮かんだのは、けんかして気まずいまま寄宿舎に戻った高校生の息子のことである。

あの子も、クロアゲハかもしれない。

わたしが理解できないのは、わたしの知っている蝶でないから。

さなぎが死んでいるように見えても、その中ではみごとな羽を育てているのかもしれない。

そして、まさに、台風が過ぎるのを待っていたかのように、その日、その時、もっともふさわしい時に羽化するのだ。

クロアゲハはそれから一時間ほど、ゆっくりと羽を乾かしていたが、わたしがレースのカーテンに止まらせてやると、二度三度と羽を広げ、ふわりと風と一緒に飛び立った。そしてあっというまに隣家の屋根を越え、ミモザの木を越え、谷戸の林に溶け込んでいった。

数日後、庭のみかんの木にクロアゲハが飛来していた。娘は三号(飼っていた幼虫につけていた名前)に違いないと言う。アゲハは生まれた木にもどって卵を産むというからだ。

そのクロアゲハが三号かどうかはわからないけれど、わたしはまだ、静かな思いに満たされていた。

神は大自然を備えてくださった。そしてその営みは、しばしばわたしたちに神の知恵を悟らせる。それも、絶妙なタイミングで。

わたしは、子どもの頃にアゲハなんかに興味はなかった。

だからその生態もしらず、親になる年まで、無知であった。

しかし、このことさえ、備えられていたのではないかと思うのだ。なぜなら、クロアゲハのさなぎが黒いということを知っていたら、今日の気づきは与えられなかった。

その日、その時、もっともふさわしい時にわたしは真実を知ったのだった。

潜伏(かくれ)キリシタンの逆説

今日、イエスの聖心の日に、司祭年のまもなくの閉幕を記念して各地で司祭の集まりがあるようです。
司祭年にあたって、私はなにを深めてきたか、というとまったく自信はありませんが、一昨年の188殉教福者について身近で学ぶ機会やいろいろな出会いの中で、この、司祭減少の時代が何を問うているのか、ということは考えてきたつもりです。

ただ司祭召命の減少を憂いて、時代を嘆くだけでは建設的ではない。
こういう状況のメッセージを感じなければならないでしょう。

以下は、twitterで、あるフォロワーさんへの一連のツイートをまとめたものです。
「司祭不在の状況で、信徒ができること」という話題から発展した話です。
私は、川村信三神父がイエズス会鎌倉黙想の家で2009年3月に行った黙想会の講話をテープ起こしする機会に恵まれ、おかげでじっくりと殉教者の時代の信徒たちの話を聞くことができましたので、「司祭不在時代の信徒」といえば、反射的に、キリシタンが思い出されたのです。

*****

16世紀の末に日本には約220万人の信者がいて全国200箇所くらいの共同体をイエズス会士40名が司牧していたそうです。当時教区制はなく、神父は文字通り全国を走り回っていたことになります。

トリエント公会議で、赦しの秘跡を必ず年に一度は受けなきゃならない、と決まったので、そういう意味で、神父も信徒も必死だったわけで。いつ来るかわからない(通信手段はないですから)神父を待って、共同体は臨戦態勢で準備をしてたわけです。

そういう共同体、全国で同じように信仰を保っていた信仰共同体の形態をコンフラリアというらしいのですが、ヨーロッパで13世紀に発生したものらしい。苦行集団とか、信心の集団ですよね。司祭がいなくても、信徒で信心業を中心に信仰を保っていた互助組織みたいな。

この、コンフラリアを支えていたのが聖体と、赦しの秘跡だったのです。
司祭にしかできないこのふたつの秘跡が司祭がいないからこそ求心力を持って共同体を支えていたらしいのです。先に列福された米沢の殉教者たちは「聖体の組」でした。

しかし、このような状況下、赦しの秘跡を受けたくても受けられない、特に臨終の人には秘跡をうけられないということは大きな苦しみでした。それで、当時のイエズス会は、日本に関して特別措置を教皇様に願い出て許可されたのです。それが「こんちりさんのりやく」。

「こんちりさんのりやく」には、臨終に際して口に出しても、心の中でも、完全な痛悔を持って唱えれば完全に赦される、というオラショが載っています。これが1600年に出て、みな必死で書き写した。写本があちこちに残っています。

不思議に、「こんちりさんのりやく」が残っていない隠れキリシタンの共同体は再宣教後復帰せずに土着宗教化したらしいです。
で、聖体ですが、さすがに司祭なしでミサはできないが、ミサの儀式にきわめて近い儀式をやっていた。五島に伝わる「おたいや」の作法はまるでミサです。

外海に伝わるバスチャン様の言い伝えで「7代たったら海の向こうから神父が来て思う存分赦しの秘跡が聞いてもらえる日が来る」と言われていたそうです。その預言どおり、鎖国は終わり、宣教師が来日しました。明治になって、大浦天主堂での信徒発見の後、たくさん出てきた浦上の信徒は赦しの秘跡を受けに来たのだそうです。7代もの間、彼らは赦しの秘跡を待っていたのです。

つまり、潜伏したキリシタンの信仰共同体を支えていたのは「秘跡」であったということです。司祭がいなくて、実際秘跡に与れなくても、信仰を支えたのは「秘跡」だった、というすごい逆説です。以上、川村信三神父の黙想会の受け売りですが。

「信徒の時代」というのはこういうことかと思います。一昨年の一連の列福関連の学びで単に殉教を英雄視するのではなく、こういう雄雄しさ、ひたむきさを持った信徒たちがいた、ということ。信仰の成熟とは、ということを考えさせられました。

*****
これに対して、あるフォロワーさんは、以下のようにおっしゃいました。

「隠れの人を支えていたのは秘跡と、そして聖霊だの。かたち上の決まりよりももっと大切なのはその秘跡を信じる強さみたいな。聖霊の働きなくばそれは出来なかったと思ったりするのだな。」

*****

まったくそのとおりだと思います。

そして、そこに、この時代を生き抜くヒントがあるのではないかと思うのです。

生きた信仰を生きているか?!(へんな言い方ですが)

信徒も、司祭も、修道者も。

記憶2

両親が教会から足が遠のいた理由はわからない。
はっきりと、問いただしたことはない。

田舎の小さな共同体にはよそ者は入り込みにくかったこともあるだろうし、特に父はどんどん変わっていく典礼に、反感を覚えたこともあるだろう。
ラテン語でミサ答えができる、ということは誇りだったようだから。

おまけに教会までは遠かった。バスを乗り継いで1時間以上かかった。
冬は、どうしていたのだろうか・・・?

そうこうしているうちに、初聖体の学年になったので、さすがに母に連れられて教会学校に行った。
カテキスタの初老の女先生は、私が「てんにまします」も「めでたし」も言えないことに驚いていた。
母と旧知だったから、なおさら驚いたのだろう。(母もカテキスタだったので・・・)
先生は便箋にきれいな字で、「てんにまします」と、「めでたし」を書いてくれて、「これを毎日寝る前にお祈りするのよ」と言って渡してくれた。

家には十字架があった。
それを見上げて、毎晩こっそり祈った。一回ではいけないような気がして、10回づつ、唱えた。
それは、回数こそかわったけれど、今に至るまで続いている習慣だ。

教会学校には、その後行った記憶がない。
夏合宿とか、クリスマスの聖劇とか、時々の記憶はあるのだが、初聖体は受けなかった。
今にして思えば、父の、意識的な選択だったのだろう。母は辛かったにちがいない。
その後も大祝日には母と二人でミサに与ったが、母は赦しの秘跡を受けていないから、といつも聖体拝領しなかった。
拝領の時、どんどんまわりの人たちが立って行くのに、跪いたまま祈っている母の隣でなんだか悲しい気持ちだった。

時々、家を祝福しに、イタリア人の神父様が現れた。
教会に来ていない信徒の家庭を訪問していたのだろう。
電話もないころである。雪の夜に、突然赤鬼みたいな外人が、修道服(フランシスコ会)の雪をばさばさ払いながら入ってきた。
赤鬼は、教会に来ない私たち一家を少しも責めずに、家に聖水をまき、お茶を飲んで雪の降りしきる闇に消えていった。

小学校の高学年のとき、夢を見た。
革ジャンのイタリア人男性が現れて、自分の名前はガブリエルだという。
彼となにを話したかは覚えていない。受胎告知の話なんてもちろん知らなかった。ガブリエルという天使がいる、ということは知っていたと思う。
大学生になって、学生寮のシスターにその話をしたらものすごく驚かれた。
「もったいない。わたしもそんな夢を見てみたいわ」と言われた。
シスターと聖書を勉強して、わたしも呆れた。
そして、本人が意識していても、していなくても、神の守りはある、ということをしみじみと感謝した。

*****
母が末期癌で、永くないことを知らされた。両親とは、確執があり、親しく交流してはいない。

母に対してもいろいろな思いはあるのだが、教会との和解が気にかかっていた。

激痩せした母に、教会に行こう、というと、複雑な顔をしたのだが、なおも、行こう、そこは誰にも気兼ねのいらない修道院だから、と言ったら、連れて行ってほしい、と言った。

母は何十年ぶりにか、赦しの秘跡を受けて、神父様は母と私のためにミサをささげてくださった。
ご聖体を受けて、母は泣いていた。

母は、こんなに永く、秘跡を待っていたのだ。

その母を、辛抱強く待っていてくださった主に感謝。

記憶 1

7月の初めに生まれて、8月15日、聖母被昇天の大祝日に、大阪教区の、瀬戸内海に浮かぶ島の教会で洗礼を授かった。

そのころ、両親は教会で働いていたそうだ。母はカテキスタ。父は神父様や、近隣修道院のシスターの手伝いをしていたらしい。

もちろんそのころの記憶はまったく無い。

ただ、両親にとっては「いい時代」だったようで、しばしば島の生活を懐かしむ思い出話を聞かされた。と、いうのも私のもの心付く前に諸事情で私たち一家は母の実家のある雪国に引っ越してしまったから。

雪国の教会には、なかなかなじめなかったようで、いつの間にか教会から遠ざかることになる。

ただ、大祝日のミサには隠れるように母と参列した。

寝る前にたったひとりで唱えていた主の祈りと天使祝詞。まるで隠れキリシタンだ。

なぜ、遠ざかったのかははっきり聞いたことはないのだが、共同体の閉鎖性と、多分、ミサの形式が変わってしまったからだと思う。第二バチカン公会議の開催と私の生まれた年は相前後している。

・・・父は、よく「天使ミサ」を歌っていた。侍者の作法について、懐かしそうに話していた。

*****

大学生になって、合唱サークルに入ったのだが、よくミサ曲を歌う団だった。ラテン語の歌詞について、カトリック信者だから、というだけの理由で、私によく質問がきたのだが、なぜか困ることもなく答えられた。

・・・というか、歌詞を覚えているのである。

これには我ながら驚いたし、ちょっと気味悪いかんじもした。

胎教、だったのかもしれない。

母のおなかの中で、そして膝の上で、いつも聞いていた「天使ミサ曲」。

*****

おぼろげに覚えている雪国の教会の内部は、左右にマリア、ヨセフの祭壇があり、内陣には拝領台があった。子ども心にも荘厳なものと感じていた。香の匂い。ずらりと並ぶベール姿。赤と白の侍者服。

そういう、世界だった。

郷愁、は感じる。

しかし、郷愁、は経験した者だけのものだ。経験していない人に、その思いを説明するのは難しい。

そして、また、ある意味それだけのものでしかない、という気もする。

*****

昨今、ミサがくだけすぎだとか、いろいろ議論もあるようだが、「郷愁」がその価値判断の基準になってはいけないだろう。

普遍的なもの、精髄、はもっと他にあるだろうと思う。

そんな気がする。

復活のイエス像の話

jesus1私が関わっている修道院に写真のようなイエス像があります。

大きさは140センチくらいで、復活のイエス像と思われます。

以前、神父様やシスター方から聞いた話では、某プロテスタント教会の牧師先生から預かったもの、ということでした。それ以上の来歴は誰も知らず、その修道院の簡素な雰囲気とはちょっと違うかんじで、廊下の隅に安置されていました。

しかし、あまりにも傷みがひどく、場所もとるし、処分の話が出てきたのです。

聖像、聖具の処分はいろいろと面倒で、粗大ごみに出すわけにもいかず、地中に埋めるか、焼くか、どちらもこの大きさでは不可能です。

それに、傷んだから処分というのもあまりにも忍びない。いずれ朽ちていく運命としても、せめてその来歴を知りたいと思い、私は調べてみることにしたのです。だいたい、なぜプロテスタントの教会にあったのか??

今は異動になってしまったシスターに電話をかけて、このお像を持ち込んだ牧師先生が誰か、思い出してもらうことにしました。

「思いだせないわねえ・・・」と言っていたシスターが半日後に「思い出したわ!!」と電話をくれて教えてくれたのは、品川にある単立教会の名前でした。牧師先生の名前は思い出せないとのこと。さっそくネット検索したら、幸いその教会にはHPがあって、私はその教会宛にメールを送ってみたのです。

一日もたたずに、牧師先生からお返事がきました。

その聖像を修道院に委託したのは、先代の牧師先生で、20年ほど前のことであろう、ということ。それ以上のことは知らないが、その聖像を修理した彫刻の保存修理の専門家の名前は覚えている、ということ。ただし、彼の連絡先は知らないこと、など・・・。先代の牧師先生はそのお像を自腹で修理したこと・・・。

保存修理をする場合、必ずその美術品について調査をします。ですから、その、保存修理の専門家を捜し当てればかなり詳しいことがわかるのではないかと思いました。幸いその方の名前がかわった苗字であったので、牧師先生も覚えていたのですが、またまたネット検索してみたら、それらしき名前がいくつかヒットしました。それで、ある木彫工芸品を扱うサイトに彼の名前を見つけ、そのサイトにメールをしてみたのです。

一日後に返事がきました。

そのサイト主は目指す彫刻家の知り合いであり、彼に連絡をとってくれるとのことで、こちらの連絡先を教えて、しばらくしてからご本人から電話がきました。

なんとも、まあ、こんなにすんなりとわかるとは思ってもみませんでした。イエス様、やっぱり処分は望まれていないのかな。

その彫刻家の話では、牧師先生は品川にある某寺院(かつてフランス大使館員の宿舎のひとつだったらしい)からお像を預かっていたこと。その寺院に、おそらく50年以上あったのだろうということ。修理時の調査によれば、素材となっている木材は日本には無い種類の、おそらくフランス産の木材で、彩色やそのスタイルから日本でいえば明治初期、遡れば150年以上前の製作であろう・・・

彼は、牧師先生から相談を受けた時、東京芸大で保存修理を教えていたので、学生たちの勉強にもなるということで修理を引き受けたのだそうです。しかし、こういうお像の修理の前例がなかなかなくて、苦労した、とおっしゃっていました。持っている旗に書いてある文字について、イエズス会の司祭に照会した、とも話していました。

「・・・そうですか。カトリックの修道院に引き取られたことは知りませんでしたが、よかったです。あるべきところに引き取られて。」
甘いマスクまつ毛があるんです

明治初期、フランス、とくればパリミッション会です。

おそらくパリミッションの宣教師がフランスから持ってきたか、信徒に言付けて送ってもらったものでしょう。

それがなぜ、お寺に眠っていたのかは知る由もありません。

長い月日、復活のイエスはお寺、プロテスタント教会、といったカトリック以外の人たちに守られていたわけです。まあ、お寺では、おそらく忘れられていたのだと思いますが、少なくとも、捨てられはしなかった。

聖像や聖画は、それ自体が尊いわけではありません。所詮はいつかは滅びるものです。

もの、に郷愁を感じるのは、信仰とは別の次元のことですが、150年の歳月と、それにかかわった人の思いを想像すると、なんとも心が動かされました。

処分、はとりあえずやめてもらいました。実際、不可能ですし。あいかわらず、場違いに、修道院某所にひっそりと安置されています。誰かが、お花を供えてくれています。

我が家のリビングにかかっている「最後の晩餐」と「絶えざる御助けの聖母」の画は、某教会のバザーに出ていたもの。

200円くらいで買って、額縁を開けてみたら、1950年代のコロンバン会の会報が入ってて驚いたことがあります。

宣教師、がぐぐっと身近に感じた一瞬でした。

古風な復活のイエス像探偵団を終えて感じたある種の感動は、やっぱり、そこにつながるのかもしれません。

ピア名古屋のワインの話

昨日、お手伝いに行っている修道院で、ちらしを発見。

なんと、ワインのセールのお知らせ。ただし、なんとかマートではなく、ピア名古屋という社会福祉法人のもの。あー、よく教会のバザーに出てるワインだ。一昨年はペトロ岐部ワイン、てのを買ったっけ。修道院のパーテイーでも出てたなあ。

よく読んでみると、「多治見修道院・セミヨン&シャルドネ 限定ワイン」なんてのもあるし、オーストラリア最古のイエズス会修道会で作られているセブンヒル修道院ワイン、スペインのサンガブリエル元神学校で作られているワインとか・・・なかなか、由緒がありそうです。

さっそくピア名古屋のHPをチェックして、担当の方にメールを入れてみました。

以下、ピア名古屋のKさんからのお返事の抜粋です。

御連絡ありがとうございます。
私は、(社福)AJU自立の家 ピア名古屋 Kと申します。
この度は、とてもありがたいお申し出を頂き大変嬉しく存じます。

我々は名古屋で福祉活動をしておりますが、
設立は「愛の実行運動」というカトリック神言修道会の宣教師が始めた教会内の活動から派生した法人です。あまり宗教色は強くありませんが、その活動の根幹はやはりカトリックに根ざすところが多いと感じています。
AJUホームページ
http://www.aju-cil.com/

法人の部署の一つに「ピア名古屋」があり、知的障害を持つ仲間と多治見神言修道院にて
葡萄をつくり、ワイン販売をさせていただいています。
ピア名古屋ページ
http://www.aju-cil.com/pia/works2.php

ただ、多治見だけでは生産数量が少なく、皆の工賃を増やす為に海外の修道院ワインを販売しています。
現在はスペインのサンガブリエル元神学校のワイン、
オーストラリアにあるイエズス会セブンヒル修道院ワイン
を扱っています。
http://www.aju-cil.com/pia/wine_6.php

PS
多治見修道院の畑では昨年は葡萄に病気が出て、今年はワイン販売が厳しいところです。
何としても今年の夏は収穫を増やしたいのですが、多治見の葡萄にはもっとお日様が必要です。
毎日祈るしかないのは、もどかしいところ、皆様のお祈りをお願いします。

気温の変化が激しい日が続いておりますが、ご自愛くださいませ。
             ピア名古屋 K

HPでもご覧になれますが、皆さんの笑顔が素晴らしいです。
今年は天候が不順ですが、こういうところにも影響が出ているのかと思うと胸が痛みます。

イエスに従う生き方は「貧しさを選ぶ」ことの連続ですが、それはけちけちして生きることではありません。たとえば、こういう時に、なんとかマートで安いワインを買うことではなく、少しでもお金が生きる選択をする、ということでしょう。

Kさんのメールからは仲間に寄り添って生きる優しさを感じました。

グリーフケア

長男がちらしを持ってきた。

「上智大学グリーフケア研究所開設記念式典」

[日 時] 2010年5月17日(月)午後4時~午後6時
 [場 所] 上智大学四谷キャンパス10号館講堂
【第1部】特別講演
 「グリーフケア-人間の受ける心の傷の救いはどこから来るのか-」
   日野原 重明(聖路加国際病院理事長、グリーフケア研究所名誉所長)
【第2部】
  グリーフケア研究所開設にあたって
    高木 慶子(上智大学グリーフケア研究所所長)
  グリーフケア研究所への期待と提言
    水野 治太郎(東葛・生と死を考える会)
    若林 一美 (小さな風の会)
    山崎 章郎 (日本ホスピス緩和ケア協会)

※記念式典への参加を希望される方は、以下のURLからpdfファイルの2ページ目にある申込用紙に必要事項を記入の上、FAXにて下記までお申込ください。(参加費無料)定員になり次第、申込を締め切らせていただきます。
 http://www.sophia.ac.jp/J/newsfiles.nsf/vwFile/100517grief.pdf/$FILE/100517grief.pdf

 申し込み先 : FAX 03-3238-3162 (上智学院 総務局)

え、もうすぐではないの。残念ながら月曜日の夕方は三女の塾があるから出かけられない。

ところで、グリーフケアとは。

グリーフケアとは、子ども、配偶者など、身近な大切な人を亡くして大きな悲嘆(グリーフ)にくれている人をケアすることだそうです。

日本では、日本グリーフケア研究所が、日本で初めて「グリーフケア」を扱う研究所として2009年4月に聖トマス大学(兵庫県尼崎市)に開設されたそうです。これは、尼崎の福知山線脱線事故をうけて、グリーフケア専門職の養成講座の企画から設置されたそうです。

聖トマス大学はまもなく閉校になるため、今年度から上智大学にグリーフケア研究所が移管されるそうで、その開設記念式典、というわけです。

研究所の公開講座は10月から上智大学の四谷キャンパスで開講されるそうです。(有料)詳細は、後日、HPに掲載http://www.sophia.ac.jp/

母の顔

ままのかお末っ子が、幼稚園で母の日のプレゼントに、「ままのかお」を描いてきました。

素直に、とても嬉しかった。けっこう、かわいく描けているし。

上の子達も幼稚園のころは必ず描いて持ってきたのだけれど、、、、

これは「ヒト」の顔??というものもあり、手を入れすぎて真っ黒になったのもあり、まったくやる気が起きなかったのか、まる、だけ、なんてのもあり。

それはそれで ありがとー! なんですが、本人も不本意なのがわかるから、なんとなくそっとしておいたような。

私もかつてはこどもでした。

母の日になると、やっぱり「お母さんの顔を描け」と言われました。長じては、お母さんへありがとうの作文を書けとか。

いつも困りました。

母の顔、なんて描けと言われて描けるものじゃありません。描けば描くほど違ってくる。おかあさんの顔はこんなんじゃないよ、もっと・・・、あー、失敗。

作文で、私の母は・・・と書き始めても、うまく進まない。顔は丸くて、ちょっと太ってて・・・こんなこと書いたらがっかりするよね。

なんでだろう?   母の顔、は写実できるものでもなく、写実したところで、それが母をあらわしているわけじゃない。

そのあたりのジレンマが、上の子達の「ままのかお」からも読み取れました。

末っ子は、運が良かった。えいっと描いたら、ままみたいだった!それとも、直観的な「まま」のイメージがしっかり焦点を結んでいるのかな?それなら、ブラボー、ですが。

私がどうであれ、私を愛してくれる存在を実感できたのは、子どもたちのおかげ。

「ままのかお」は、最高の ”I love you.” です。

怠け者

霊操に、ふたつの旗、というのがあります。

この世の価値観(罪につながる価値観)と、イエス・キリストの価値観、このふたつをさします。

どちらを選ぶか、ということですが、当然キリスト者としてはキリストの選びを選びたい。

しかし、選ぶ前に、自分にとっての罪の傾きを見極めなければなりません。

D・フレミングの『霊操の現代的読み方』によると、

人間が誰しも影響を受けてしまう悪の影響は以下の三つだそうです。

  1. 富の欲を抱かせる(これはわたしのものだ)
  2. 名誉への望みを起こさせる(わたしに注目してほしい)
  3. それによって傲慢な人になる(わたしはこんなに優れている)

私にとっては2、3はわかりやすかった。潜在的に目立ちたがり、ほめて~!という人ですので。

しかし、1は、あんまり関係ないかな、と思っていました。あまり欲がないほうだと思っていましたから。とりあえず、食べるに困らなければいい、おしゃれにもあんまり興味もないし。

ところが、このごろ、実は「富への誘惑」というのは、そんな単純なものではないのではないか、と気づいたのです。

「時間」。

たとえば、誰かのために自分の時間を使うこと。これがなかなかできない。

もちろん、自分のしたいことと一致してれば、いくらでもできますが、それはすでに「自分の時間を自分のしたいように使っている」ことと同じです。

「これは、わたしのものだ」・・・「この時間はわたしのもの」。

自分のペースで事を進めたい。誰かに邪魔されるのは嫌。好きなことだけ、好きなだけ。

もっと言えば、家族が病気になったりするのを「心配」するのも本当に相手のことを思っているのかわからない。自分が「心配」で心が乱されるのが嫌、看病で自分のペースが崩れてしまうから、嫌、とか・・・

どうも、このごろ、いろんなことをするのが億劫なのは、年のせいで体力不安があるからか?と思っていましたが、そうでもないのかもしれません。

実行力が無い、と思っていたけど、実はそうではないのかもしれません。

他人のために時間を割くことが嫌だ、という罪深き怠惰。怠け者。

私よりもはるかに年配なのに、奉仕に奉仕を尽くしている知人がいます。

いくつもの病気を抱えながらも笑顔で人のために働く知人もいます。

・・・私は相変わらず、悪いほうの旗の下にいるのかもしれません。